ファンファーレ

この前ふと、自分のツイートをいくつか選んで、まとめてみようかなと思った。誰に見せるでもなく、ただ私が元気を無くした時にひっそりと見返して思わず顔を綻ばせたくなる、そういうものが欲しかった。

 

 

 

これは私のフォロワ〜なら一度は見たことがあるであろう例の発作ツイートな訳だが、つまりは、こういうツイートをまとめたかったのだ。幸い、私のツイートは2つに1つの割合で狂気を孕んでいるので、小1時間もすればあと3年は困らないであろう量のものが集まった。モーメントに私が狂う様が整然と並べられていく。その風景は、さながら『狂気の美術館』である。こいつめっちゃ二宮くん好きだな。毎日新鮮に気付くことを、今日も噛み締める。

そして、それと同時に、そこには美しい感情しか存在していないのだな、ということにも気付く。

 

 

最果タヒさんという、美しくて鋭い文章を書く方がいる。彼女の文章は、これは私のためだけにある言葉ではないか、これは私だけの、私のためだけの物語ではないか。そう錯覚してしまう何かがある。その中で、私が特に心を奪われた文章があるので、引用させて頂こうと思う。

 

ぼくの最低な部分が湖のように、深いところで光って、中を泳ぐ魚たちが絶対に死なないことが、実は、ちょっとだけ好きだ。大切な感情はすべて重たくて、沈めていく。
 100パーセント、美しさのせいで泣きたい。悲しみも寂しさも下水道に捨ててしまいたい。

(『夜空は最高密度の青色だ』より)

 

 

二宮くんと嵐のことを好きになって何年か経つけれども、苦しかったことや悲しかったこと、遣る瀬無かったこと、人並みにはあった気がする。私の“好き“が彼らを神格化しすぎた故の、ネガティブな感情。彼らが沢山の人に愛されているからこその、チラつく悪意。いつ思い出しても、やはりそれらは気持ちの良いものではない。

こういったことをポロリと非オタの友人の前で零した時、「誰かを推す時に『苦しい』なんて感情存在するんだ!?」と驚かれたことがある。非難の意味は一切こもっていないからこそ、「そんな感情私も切り捨てたいよ〜〜」と朗らかに愚痴ることが憚られた。もしかしたら、明確に言語化してしまうと戻れない気がしていたのかもしれない。誰よりも私自身が、ただ真っ直ぐで純粋な『好き』を向けられないことに苦しんでいた。知らないふりをしていたかった。

 

実を言うと、当初、私は二宮くんの結婚を祝福することが出来ていなかった。TLにじわじわと週刊誌は本当かもしれないという空気が立ち込め、ろくにお風呂に入ることもできず、FCメールを2分に1回確認していた、そんな夜9時過ぎ。本人からの直筆メッセージをこの目で確認した時、真っ先に頭に浮かんだことは、(おめでとうって言わなきゃなあ)だったのを覚えてる。おめでたい。間違いない。その事実はただただおめでたい。でも、そこに純度100%の祝福の念があったかと問われたら、それは間違いなくNOだ。フォロワーが皆、お相手が、発表の時期が、と盛んに言う。いわゆる“リアコ”と称される1人のフォロワーは、2日後にアカウントを消した。比喩ではなく、大洪水だ、と思った。TLには祝福と驚きと困惑と怒りが溢れかえっていて、情報の海の中を泳ぐことすらままならない状態だった。そんな中で、でもひとつ、確かなことがあったように思う。私は、お相手も発表の時期も国民的アイドルの結婚という衝撃的なニュースも、はっきり言おう、全く興味がなかった。

ああ、解釈違いだ。ダメだ。揺らぐ。私が何年もかけて自身の中に作り上げた“二宮和也“の像が、揺らぐ。私が、嵐の二宮くんという人物を通して見ていた“二宮和也“という偶像が、紛い物に過ぎないということ。それが証明されてしまう。ダメだ。この二宮くんは、私の中の二宮くんとは、違う。

そんなことを思う自分の“偶像崇拝感“があまりにも嫌で、気持ちが悪くて、こんな形で気付かされてしまったのも嫌で、私はただ自分のためだけに泣いていた。そこから1ヶ月ほど、どのように過ごしていたのかあまり覚えていない。ただぼんやりと、実像の二宮くんと偶像の二宮くんが乖離している事実を咀嚼していたのだろうか。年が明ける頃には、二宮くんが幸せでよかったなあと心の底から思いながら、みかんの皮を剥いていたように思う。

 

この頃のツイートは、恐らくもう残っていない。どこかのタイミングで我に返った私が消していったのだろう。他にも、ここではあげないが、何度かこういうことがあった。私の思い描く彼らと実際の彼らの差異に勝手に苦しんで、勝手に落ち込むことが、あったのだ。そのたび私は、一つひとつを丁寧に削除していった。彼らを狂ったように推すこの場に、できるだけネガティブな感情は残しておきたくないというのが私の考えだからだ。だから、上にあげたタヒさんの文章を読んだ時、心臓の奥の柔らかい部分をずくんと突かれたような気持ちになった。

ぼくの最低な部分が湖のように、深いところで光って、中を泳ぐ魚たちが絶対に死なないことが、実は、ちょっとだけ好きだ。大切な感情はすべて重たくて、沈めていく。

私の中の黒くて重たい感情は、奥にしまい込んでいたい。それらの感情は決して私の『好き』をかき消さない。それが分かっているから、一つひとつの痛みや切なさを、じっくり沈めていく。二宮くんへの感情の上澄みだけを掬って、そういう美しいものだけをひっそりと並べていく。それに良いも悪いもない。私は、私の『好き』とそう向き合っていく。

100パーセント、美しさのせいで泣きたい。悲しみも寂しさも下水道に捨ててしまいたい。

 何を美しいと定義するのだろうか。まだ私には到底分からなさそうだが、少なくともあの日の私の涙は、美しさなど微塵も含んでいなかっただろう。でも、それでいいや、と思う。もし100%美しさのせいで泣ける日が来たら、それはきっと今の私の『好き』とは少し異なって、ちょっぴり寂しいだろうから。

 

これを読んでくれているあなたの『好き』と私の『好き』も、きっと少し異なる。私はそれを、やはりちょっぴり寂しいなあと思いながらも、この世界に溢れた色とりどりの『好き』に思わず胸が高鳴ってしまう。皆バラバラな『好き』を抱えているのに、その『好き』を注ぐ先が一緒というのは、何だかとても嬉しくて良いことな気がするのだ。

 

 

 

二宮くん。あなたの危うげでどこかグレーな瞳が、たまらなく好きです。

二宮くん。あなたの柔らかくて鋭い言葉が、たまらなく好きです。

二宮くん。あなたの愛の温度と色が、たまらなく好きです。

38歳も、どうか沢山愛し、愛され、健康で。

 

お誕生日おめでとうございます。 

 

 

 

 

 

 

 

こうしてごちゃごちゃ考えていると、大抵私の中に住んでいる二宮くんは、「ぐちゃぐちゃ考えて気が済んだ?はい、じゃマリオやろ」ってコントローラーを手渡してくる。だから私は、今日も元気にゲームスタートのボタンを押す。

ファンファーレの音がする。今年も、6月17日が始まる。

 

皆さんにとっても、今日1日が最高な日になるといいなあと、そんなことを思いながらこれを書いています。今年も自分の『好き』を大切にしていきたいね。改めて、おめでと〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!!!!!!